こんにちは!まちおこしライターのハシゴダカ(@hashigodaka_com)です!
昨日は、庄内町と風車の関係について触れる記事を書きました。
今回はさらに踏み込んで、日本の自治体による風力発電の先駆けとなった物語をお伝えしたいと思います。
悪風「清川だし」により貧しかった町
現在の「庄内町」は、平成17年に「余目町」と「立川町」が合併して誕生した町です。
そのうち「立川町」が、現在私も住んでいる地域。
この「立川町」が、かねてから長い間、
全国でも稀な悪風に悩まされてきました。
立川町(たちかわまち)は山形県にあった町。風が強いことで有名で、風力発電を町全体で推進した。
2005年(平成17年)7月1日に余目町と合併し庄内町となった。
この悪風は「清川だし」と呼ばれ、稲や野菜はなぎ倒され、
さくらんぼを育てることもできず、立川町は疲弊していくばかりでした。
清川だし(きよかわだし)は、山形県東田川郡庄内町清川付近に吹く夏の地方風。日本三大局地風の一つに数えられ、地峡風の代表例に挙げられる。
山形県庄内町清川の付近は、出羽山地を最上川が貫く最上渓となっており、奥羽山脈から吹く南東の風が、新庄盆地を経て、日本海側の庄内平野に吹き抜ける通り道となっている。川の両岸を出羽山地に囲まれている地形から風が集まり、庄内平野側の出口にあたる清川で局所風となる。夏場を中心に強風が続くため、古くから、農作物の生育に大きな影響があった。
近年では、一定した強風を活かした風力発電が盛んで、風車がいくつも建設され、町の観光の拠点ともなっている。
やっかいな「悪風」を逆手に取って
この悪風「清川だし」を逆手に取り、
風力発電による農業への活用(温室ハウスへの加温)を目的として、
昭和55年から実用化実験が始まりました。
しかし、あまりにも猛烈な風により、2度に渡って風車が壊れてしまいます。
羽がへし折られ、次は発電機ごと飛ばされ…
結果、国は「日本での風力発電は困難」という結論にいたります。
再挑戦のきっかけはあの事業
2度の失敗で止まってしまった計画ですが、再び動き出すきっかけとなる、
ある出来事がおこりました。
それは1988年の、通称「ふるさと創生事業」。
各市町村それぞれに、地域振興の為に一億円が交付された、
竹下総理によるバブル期を象徴する政策です。
余談ですが、私の地元青森県では、
純金・純銀製のこけしや1/4スケールの自由の女神像、そして目が光る巨大土偶など…
色んな意味で話題になった用途が多いのです…。(笑)
話を立川町に戻します。
立川町はこの一億円を用いて、自治体としては日本初の風力発電施設の設置に乗り出します。
その後数年間に渡り、国内外のメーカーへの交渉、
予算の大幅増、国との交渉や住民への説明などに奔走し、
「風力発電で町を変えたい」という思いが少しずつ浸透しました。
強い熱意によって地道な努力が実り、
予算の通過や国の許可、東北電力による余剰電力の買い取りなどが認められ、
1993年、ついに風車の稼働が始まりました。

デメリットをメリットに
長年住民を悩ませてきた悪風を利用して、
風車によって生み出された電力を温室栽培などに用いるという、
画期的な施策の先駆者となった、旧立川町。
今後はエネルギー自給率を更に高め、50%以上を目指します。
当時、立川町職員として奔走した方は、
現在庄内町の副町長なんです!
プロジェクトXに取り上げられるほど、町のために活躍されたと思うと、
本当に頭が下がります。
みなさんの地域でも風車を見かけたら、先駆者の努力を思い返していただければ幸いです。